V6 [1986年 / 昭和61年] 第6回優勝
第57回都市対抗野球大会

大会に向けて

17年間で都市対抗出場14回、ベスト8が3回と言えば立派な成績だ。しかし、5回の黒獅子旗を経験している日本石油では「低迷期」や「暗黒の時代」と言われてしまう。確かに、1969年からの17年間に都市対抗で挙げた勝利は僅かに8で、1975年のベスト8を最後に10年間は白星すら手にしていない。その間も選手たちは懸命にプレーしていたが、結果を残さなければ認められないのは名門の宿命だろう。

ただ、この17年間を検証すると、その理由が少し見えてくる。1970、71年は都市対抗ベスト8と、チーム力は高かったものの徐々に落ちてくる。実は、長年ライバルであった日本鋼管が、1970年の京浜製鉄所発足に伴い、本拠地を横浜市から川崎市に移転。そうして、都市対抗横浜市予選は宿敵が消えて日本石油の独壇場となる。

都市対抗に強いチームは、同じ予選地区に強力なライバルがおり、切磋琢磨しながらチーム力を高めていくと言われている。ゆえに、大勝できるチームを相手に予選を戦い、当然のように代表権を手にしても、全国の舞台では予選で培った勝負強さを発揮することができなくなる。日本石油にとっては、この状況がじわじわと影響してきたことも否定できない。1973、76年には、熾烈な川崎市予選を戦う日本鋼管が都市対抗優勝を成し遂げている。

そうして、勝ち方を忘れたようなチームになってしまった頃、予選地区割りの再編が行なわれ、1978年からは神奈川県で代表枠3となる。再び日本鋼管をはじめ、東芝、日産自動車など力のあるチームと鎬を削ることになった日本石油は、勝負強さを取り戻していく。だが、日本石油を倒して日本一になろうというライバルの気迫が上回り、1979年に導入された金属バットで野球の質も変わっていく。

1978年の都市対抗は東芝が初優勝し、日本鋼管が準優勝。1981年に準優勝した東芝は、1983年には2回目の黒獅子旗を手にする。1984年は日産自動車が優勝、日本鋼管が準優勝と、神奈川勢はすっかり社会人野球をリードする立場となり、1985年は東芝が準優勝する。日本石油も負けているわけにはいかなかった。

予選

豊かな将来性を備えた選手を採用し、着々と育ててきた1986年は、新任の磯部史雄監督の下でリーグ戦方式の都市対抗神奈川二次予選に出場。3勝1敗1引き分けで何とか第三代表に滑り込む。新人の鈴木慶裕と若井基安が一、二番に定着するなど、若手に勢いのあったチームに、磯部監督は予選で敗退した日産自動車から37歳のベテラン捕手・村上忠則、東芝打線の主軸を担っていた32歳の武智勇治と、ベテラン2名を含む4名を補強した。

一回戦、初戦突破をかけて力投する岡田邦彦投手

一回戦は、門真市・松下電器(現・パナソニック)との対戦。2回表に二死二塁から村上が左前安打を放つも、二塁走者は本塁で憤死する。磯部監督は「勝てない時はこんなものか」と落ち込んだというが、続く3回表の一死一、二塁では、四番に座る石川正之が先制3ラン本塁打を放つ。続く玉川 寿もアーチを描き、4点をリードした。

先発を任された岡田邦彦は、1回裏に一死三塁のピンチを凌ぐと、丁寧な投球で松下電器に得点を許さない。5、8回にソロ本塁打を見舞われたが、打線も7回から1点ずつを奪い、7対2で11年ぶりとなる白星をつかみ取った。磯部監督は安堵し、「これでいい。あとは気楽にやろう」と選手たちに言った。すると、「冗談じゃありません。とことん勝ちましょう」と返されたという。この勝利には、名門を目覚めさせる大きな価値があった。

一回戦、初戦突破をかけて力投する岡田邦彦投手

二回戦

名古屋市・国鉄名古屋(現・JR東海)との二回戦でも打線が爆発。2回表に六番・曽根原博志がバックスクリーンの左に打ち込んで1点を先制し、二死後に4連打で3点を追加。続く3回表にも3点をもぎ取り、序盤で勝負を決める。先発の岡田は4回裏に2ランを被弾したが、スライダーとシュートで揺さぶる投球は冴え渡り、以後は失点しなかった。9回表にも1点を奪った日本石油は、8対2で11年ぶりのベスト8進出を果たす。

若獅子賞に輝いたルーキー若井基安

準々決勝と準決勝は、奇しくも初出場のチームと対戦する。神戸市の阿部企業は、一回戦で神奈川第一代表の三菱自動車川崎に競り勝っている。先手必勝で臨んだものの、先発の田口操が台湾人選手に2発を浴びるなど4回までに3点をリードされる。それでも慌てることなく、5回表二死満塁から若井の三塁打で同点に。さらに、6回表一死から玉川が四球を選ぶと、曽根原がライトへ逆転2ラン本塁打を突き刺す。これで打線は勢いづき、代打の田島信昭も2ラン本塁打。終盤にも着々と加点し、10対3で18年ぶりのベスト4となる。

若獅子賞に輝いたルーキー若井基安

得点のたびに男女リーダーが肩を組み、「力と希望」を大合唱

準決勝で対戦した大阪市・大阪ガスとは、5回までスコアレスと息詰まる投手戦を繰り広げる。1安打と好投してきた先発の岡田は、6回裏に3本の長打を食らって2点を失う。だが、エースが打たれて燃えたという打線は、直後の7回表一死から曽根原、中葉伸二郎、村上の連打で1点を返し、二死後に鈴木も中前へ弾き返して同点とする。田口と保戸田勝利でその裏を抑えると、8回表には一死から石川が勝ち越しのソロアーチ。9回表も二死三塁から若井が中前安打を放ち、4対2で19年ぶりの決勝に駒を進める。

得点のたびに男女リーダーが肩を組み、「力と希望」を大合唱

19年ぶりの歓喜の瞬間

決勝の相手は金沢市・NTT北陸。勢いはあったが、コーチだった林裕幸はこう振り返る。「試合前にNTT北陸のベンチを見たら、決勝まで来られて満足というムードが感じられたので、絶対に勝てると思った」

先発の岡田が3発を食らって3回5失点で降板しても、打線がしっかりと追いかけ、4回までに4対5。金属バット時代らしい空中戦は、5回表に武智の三塁打から4安打を連ねて逆転するも、その裏にNTT北陸も6対6に追いつく。果たして、6回表二死二、三塁から石川が詰まりながらも二塁手の後ろに落とし、さらに玉川も適時打を放って3点をリードすると、6回途中から登板した三番手の保戸田がNTT北陸の反撃を1点で凌ぎ、9対7で19年ぶり6回目の優勝を達成した。橋戸賞には岡田、打率.440の鈴木が首位打者賞を獲得し、鈴木と若井には若獅子賞が授与された。

19年ぶりの歓喜の瞬間

19年ぶり6回目の優勝を喜ぶ野球部

また、山岡政志は10年連続出場の表彰を受けた。日本石油野球部では大学卒が3年、高校卒は5年を現役生活の目途としていたため、この栄誉とは縁がなかった。しかし、1977年に秋田商高から入社した山岡は、その年の都市対抗一回戦で先発するなど、苦しい時代にエースとして奮闘。チームに欠かせない存在であり、都市対抗予選に敗退しても補強されていたことから“異例の受賞”となった。ただ、この賞が制定された1955年に、第1号で受賞した吉村英次郎はOBである。日本石油の社員でありながら、金港クラブのエースとして都市対抗で活躍していた吉村は、日本石油野球部の創設にも尽力し、1950年の創部後は日本石油の一員として都市対抗に出場していたというわけ。だから、山岡は2人目の受賞であった。

19年ぶり6回目の優勝を喜ぶ野球部

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