V1 [1956年 / 昭和31年] 第1回優勝
第27回都市対抗野球大会

大会に向けて

戦後間もなく、日本の野球界が国家統制から離れて自主運営できるようになると、1949年に日本社会人野球協会(現・日本野球連盟)が設立され、その翌年、1950年には日本石油野球部が創部される。大阪市の全鐘紡が都市対抗3連覇の偉業を達成し、社会人野球が盛り上がりを見せた時代に活動を始めた新鋭は、1951年には早くも都市対抗に初出場。清水市(現・静岡市清水区)の日本軽金属を5対4で下し、歴史の第一歩となる1勝目を挙げる。

当時は、日本石油、日本鋼管、日新運輸、横浜税関、横浜興銀、横浜ゴム、金港クラブ、横浜クラブの8チームが登録された横浜市予選で優勝することが都市対抗出場の条件。しかも、前年の優勝チームは代表決定戦にシードされる変則トーナメントだった。ライバルは、「ハマの早慶戦」と言われた日本鋼管である。創部直後は勢いのあった日本石油だが、1953年から2年続けて日本鋼管に苦杯を喫すると、チームを徹底して強化。3年ぶりの出場を果たした1955年の第26回都市対抗野球大会では、左腕・野村利則、四番・花井 悠の慶大OBコンビを投打の軸に、ベスト4まで勝ち上がる。

そうして戦力が整ってきたチームに、1956年には慶大でリーグ戦通算31勝をマークした右腕・藤田元司が入社する。首尾よく出場権を得た第27回都市対抗野球大会でも、藤田はマウンドで躍動した。

予選

一回戦

岐阜市・川島紡績との一回戦で、藤田はキレ味抜群のストレートを軸に、相手打線を力でねじ伏せる。一方の打線は相手左腕に花井ら左打者が手こずり、なかなか藤田を援護できない。ようやく8回表、川島紡績が二番手投手に交代させると、二死二、三塁から暴投で待望の先制点。続く9回表にも田中徹雄の三塁打などで1点を追加し、2対0で勝利を手にした。

二回戦

2日後のナイトゲームとなった玉野市・三井造船との二回戦では、1回表二死一塁から花井がライトオーバーの三塁打を放って幸先よく1点を先制する。ところが、相手投手の上手、横手と腕の振り出し位置を変える投球に幻惑され、2回以降は得点を奪えない。日本石油の先発は鈴木義之だったが、2回裏に無死一、二塁とされると、増山桂一郎監督は迷わず藤田にスイッチ。藤田がピンチを切り抜け、その後は両軍とも無得点が続く。次の1点が勝敗を分けると思われた9回表、ようやく目覚めた打線が4安打で2点を加え、日本石油は3対0でベスト8に名乗りを上げる。

準々決勝

準々決勝の相手は、前年の王者であり、過去6年間で優勝4回、準優勝1回の大阪市・全鐘紡だ。前年の準決勝で2対4と惜敗した日本石油にとっては、絶対に負けられないリベンジマッチである。先発のマウンドを任された野村が気迫のこもった投球を見せ、打者も眼光鋭く好球を待つ。そうして、必死に勝利を追い求める日本石油に対して、全鐘紡は王者の風格を漂わせながら冷静に好機を探る。

4回表の一死満塁を無得点で終えると、増山監督は好投の野村に代えて藤田をマウンドへ送る。その藤田が、慶大の先輩たちが並ぶ全鐘紡の打線に力の違いを見せつけると、5回表に二死三塁から花井の中前安打で1点を先制。これで、試合のムードが一変する。安打を放っても二塁を欲張ってアウトになるなど、全鐘紡の選手には少しずつ焦りが見られるようになる。そんな心理的要素も巧みに生かした藤田は、球速よりも制球を重視した投球でチャンスを作らせない。果たして、9回表に日本鋼管から補強した石井連藏に一発が飛び出し、その裏も藤田が抑えた日本石油は、絶対王者を2対0とシャットアウトしてベスト4入りした。

準々決勝

準決勝

全鐘紡を倒した勢いは、もうどこにも止められなかった。神戸市・川崎重工業との準決勝では、二回戦に続く先発を任された鈴木義が、緩急を駆使した投球でチャンスすら作らせない。また、それまで相手の好投に抑えられてきた打線も、1回表一死満塁から宮原 実(日本鋼管から補強)が中前に弾き返すと、二死後に田中徹も左前に運んで計4点を奪う。さらに、2回表にも二死から2点を追加したところで、この試合の勝敗は決したと言ってよかった。鈴木義は後半に2点を返されたものの6対2で完投勝利を挙げ、藤田を温存して決勝に進出する。

決勝

決勝は、日本石油と同様に初優勝を目指す東京都・熊谷組との対戦である。実は、このカードには都市対抗の歴史上、大きな意味があった。クラブチームが全盛だった戦前の都市対抗は、東京倶楽部の4回を筆頭に、第16回大会までに東京都が6回優勝していた。だが、1946年に復活した第17回大会以降は、企業チームの台頭とともに西日本勢が大会を席巻。東京都と横浜市による決勝は、どちらが勝っても東日本勢にとって戦後初、17年ぶりの優勝だったのである。メディアが「新興企業チーム全盛への転換点」と報じた戦いは、日本石油が野村を先発に立てて幕を開ける。

1回表、リードオフの中野健一が左前安打を放つと、すかさず二盗に成功。さらに連続四球の無死満塁から、花井の内野ゴロの間に1点を先制する。2回裏一死から野村が安打を許すと、増山監督は早くも藤田を投入。藤田は送りバントを二塁へ悪送球して二、三塁とピンチを広げてしまうが、直後のスクイズを見破ってピンチを脱する。

4回表には、菅沼正直の二塁打を足がかりに、田中徹の中前安打で2点目。8回表には花井、宮原の連打に敵失も絡んで3点目を挙げる。しかし、熊谷組も簡単には引き下がらない。8回裏に“ミスター熊谷組”の古田昌幸が右中間へランニングのソロ本塁打を放ち、藤田の連続無失点記録を29回で止めると、さらに満塁と攻め立てる。藤田は中犠飛で1点差まで迫られたが、その後を懸命に抑え、日本石油は4回目の出場で初優勝を果たした。橋戸賞には藤田が選出された。

決勝

大会を終えて

大会後に開催された第2回世界野球大会に日本代表として出場した藤田は巨人、中野は毎日(現・千葉ロッテ)、花井は西鉄(現・埼玉西武)へ入団する。

ちなみに、主力が揃ってプロ入りした翌1957年の日本石油は予選で日本鋼管に敗れ、熊谷組は5試合連続無失点という鉄壁の投手力で初優勝を飾る。この頃から、都市対抗では熾烈な戦いが繰り広げられていたのだ。

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