V4 [1962年 / 昭和37年] 第4回優勝
第33回都市対抗野球大会

予選

投打に戦力が充実し、王者と呼ばれるに相応しい試合巧者ぶりを見せる日本石油は、1962年の第33回都市対抗野球大会で、社会人球史を飾る偉業を達成する。

本大会では優勝候補と言われるが、まずは横浜市予選、すなわち日本鋼管との対決をものにしなければならない。この年の日本鋼管は、前年の橋戸賞投手・杉本和喜代をリリーフにまわし、若手の阿曽恒夫を先発に立てて日本石油を倒そうとしてきた。日本石油は、もちろん佐々木吉郎に予選突破を託す。結果は、ともに5対3で2連勝した日本石油が代表権を得る。それにしても、全国ではほとんど失点しない佐々木から、2試合とも3点を奪う日本鋼管も、間違いなく日本一になれるチーム力を備えていた。

一回戦

さて、一回戦の相手は、門真町(現・門真市)代表の松下電器(現・パナソニック)。日本石油の強力打線を抑えるには継投しかないと、誰もが予想しなかったアンダーハンドを先発に立てるが、外野への大飛球を何本か打たれ、4回からは二番手にスイッチする。

その4回裏、先頭の三番・枝松道輝がライトへ二塁打を放つと、今西良雄、奥村孝弘は四球で無死満塁。すかさず中山歳夫が中前に弾き返して先制し、倉田礼三郎の左前安打、石原正雄の右犠飛で4点をリードする。さらに、7回裏には途中出場の古田達雄もタイムリーを放って5点目を挙げる。佐々木は、4回表に連打を許したが、松下電器の走者が二塁を踏んだのはその一度だけ。4安打12奪三振のシャットアウトで、力強くスタートを切った。

一回戦

二回戦

二回戦では、常磐市・常磐炭鉱を圧倒した。1回表にリードオフの石原が二塁打を放つと、二死を取られたものの今西、奥村、中山の3連打で2点。5回表には石原、水野正雄(日本鋼管から補強)の三塁打、枝松の二塁打と、上位の長打攻勢でリードを4点に広げる。先発の佐々木も好調で、7回まで1安打11奪三振。先の戦いを見据えた井上 茂監督は、日本鋼管から補強した阿曽を8回からマウンドに送る。この阿曽も2回を1安打に抑えると、9回表にも相手のミスを誘って2点を追加。6対0でベスト8に名乗りを上げる。

準々決勝

準々決勝は、1957年の初出場から着実に力をつけてきた京都市・日本新薬との対戦だ。しかし、佐々木は「この年は打線もよく打ってくれたので、自分が抑えなければと力むことがなかった」というように、「ヒットならOK」とリズムを重視し、ピンチになるとキレ味抜群のストレートを外角低目にスバッと投げ込む。このクレバーな投球の前に、日本新薬もゼロを並べていく。すると、相手の若手投手を打ちあぐねていた打線も、4回表二死二塁から中山の中前安打で先制し、6回表にも中軸の枝松や今西の安打で2点を追加する。結局、佐々木は6安打9奪三振で完封勝利を挙げ、3対0で準決勝に駒を進める。

準々決勝

準決勝

西の横綱と前評判の高かった大阪市・日本生命が、磐石の試合運びで準決勝まで勝ち上がってきた。もう一方の準決勝では、大津市・東洋レーヨン、名古屋市・日通名古屋と決勝に進出した経験のないチームが対戦するため、日本石油と日本生命の勝者が黒獅子旗に近づくと見られていた。選手はそうやって先を意識せず、目の前の戦いに集中せよというのがトーナメントの鉄則だ。しかし、そうわかっていても意識はしてしまうもの。1回表に一死から水野が安打、二盗、枝松の右飛で三進し、今西の左前安打で先制のホームを踏むと、その裏の佐々木は完璧な立ち上がり。日本石油が試合の主導権を握るかと思われたが、2回以降は試合が膠着してしまう。

リードをしているとはいえ、1点ではワンチャンスで引っくり返されてしまう。回を重ねるごとに、重苦しいムードがグラウンドに漂っていく。そんな展開でピンチにつながるのは失策や四球と言われる通り、7回裏二死から名二塁手・枝松がエラーをすると、佐々木が連打を浴びて満塁とされる。一打逆転の大ピンチだ。日本生命は、ケガで控えにまわっていた角淳三を代打に送る。それでも、佐々木は冷静さを失わなかった。目が慣れていない打者にはストレートで勝負と決め、内角、外角、外角に全力で投げ込む。「3球目はアウトローいっぱいを狙った」

佐々木がそう振り返る3球に、角のバットはピクリとも動かず、最大のピンチを3球三振で切り抜ける。これで勝負あり。佐々木は5安打で完封。日本生命の打線も三振は2つと意地を見せたが、1対0で日本石油が4回目の決勝に進出する。第2試合で、対戦相手は日通名古屋に決まった。

準決勝

決勝

新鋭の日通名古屋が決勝まで勝ち上がってきたのは、前年に久慈賞を獲得した新三菱重工の鬼頭忠雄投手を補強していたから。フル回転の熱投を見せてきた鬼頭は、前年の借りを返そうと日本石油に挑んできた。

だが、「決勝では負けない」と言い合っていた選手たちは、プレイボールと同時に本領を発揮する。1回表二死二塁から今西の二塁打で1点を先制すると、続く2回表には集中打に敵失も重なって一気に4点。これで日通名古屋は戦意を喪失したか、7回表に1点、8回表には6点を奪い、決勝のタイ記録となる12点を挙げる。そんな十分な援護にも、佐々木は一切気を緩めず、日通名古屋を2安打でシャットアウト。日本石油は史上5チーム目の大会連覇を達成し、優勝回数も戦前の東京市・東京倶楽部、1950年代の大阪市・全鐘紡と並んで最多タイの4回となる。

しかも、5試合に先発した佐々木は、43回連続無失点という不滅の記録を打ち立てる。二回戦の8回に阿曽と交代しなければ、45回連続無失点もあったのではないか。のちに佐々木にそう尋ねると、笑いながらこう語った。「あの時は4点差で交代しましたが、もう勝てると思っていたので、8、9回に打たれたかもしれないし、1点くらいはやってもいいと思っていたでしょう。確かに、5試合とも完封すれば大変な記録だったけど、43回でも破られませんよ(笑)」

文句なしで橋戸賞を手にした佐々木は、大会直後にプロ野球の大洋(現・横浜DeNA)と契約。決勝の1か月後にはプロのマウンドで投げていた。右ヒジを痛めたこともあり、プロでは8年間で通算23勝。だが、1966年5月1日の広島戦では完全試合を達成している。歴史に残る記録とは縁のある好投手だった。

決勝

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