V2 [1958年 / 昭和33年] 第2回優勝
第29回都市対抗野球大会

予選

2年ぶり2回目の黒獅子旗を手にした1958年のキーワードは“奇跡”か。藤田元司ら主力のプロ入りもあり、前年は都市対抗予選で敗退。この年の横浜市予選は、金港クラブ、日野ヂーゼルを倒して日本鋼管に挑戦する。第1戦は、2対3で迎えた9回表に2点を奪って逆転し、その裏の無死満塁を凌ぐ。第2戦は1対1のままもつれ込んだ延長14回裏、それまで予選でノーヒットだった四番の本多秀男がサヨナラ2ラン本塁打と、神懸かり的な勝利で代表権を得ている。

予選

一回戦

門真町(現・門真市)代表の松下電器(現・パナソニック)との一回戦は、第29回都市対抗野球大会の開幕戦だった。日本石油の先発は、経験豊富な野村利則。対する松下電器は、富士鉄広畑(現・日本製鉄広畑)のエース・長島康夫を先発に立てる。増山桂一郎監督は、3回から投手を近藤三明(日本鋼管から補強)に代えて相手打線の目先を変え、投手戦の下馬評通りにスコアレスで進む。試合が動いたのは8回裏、レフトへの二塁打に失策が絡み、一死三塁とした松下電器が、次打者の右犠飛で1点を先制。これが重くのしかかった日本石油は、9回表の攻撃も簡単に二死となる。

ここで本多は、カウント2ストライクまで追い込まれながら、じっくりボールを見極めて四球で歩く。続く林正治(日本鋼管から補強)は、決していい当たりではなかったものの一塁への内野安打で一、二塁に。堪らず松下電器は投手を交代させたが、藁科敏一への初球を足に当てる死球で満塁。一打逆転の形を作ると、増山監督は法大卒の新人・水野和俊を代打に送り、水野はカウント3ボール2ストライクからライト前に弾き返す。2者が還って2対1と逆転した日本石油は、その裏を守り切って一回戦を突破する。

一回戦

二回戦

二回戦でも、常磐市(現・いわき市)代表・常磐炭鉱が先発させた18歳のアンダーハンド・近藤功に翻弄され、5回を終えて1対2とリードを許す。しかし、日本石油のしつこい攻撃は近藤に少しずつ重圧を与え、7回表には二死ながら二、三塁のチャンスを築く。常磐炭鉱は投手交代で切り抜けようとするが、宮原実(日本鋼管から補強)が中前に運んで逆転。さらに、8回表には本多のタイムリーで1点を加え、4対2の逆転勝ちを収めた。

準々決勝

準々決勝では、歴史に残る勝負に臨む。松山市・丸善石油との“同業対決”だ。国際石油産業の発達を受け、日本石油に追いつけと1955年に軟式から転換する形で創部された丸善石油野球部は、1957年には都市対抗に初出場し、この年は2回目の出場でベスト8まで勝ち上がってきた。両社の関係は良好で、丸善石油の新入部員は日本石油にも挨拶に出向いていたという。しかし、勝負となれば話は別だ。応援スタンドは殺気さえ感じられる雰囲気だったという。

そんな中で始まった試合では、専大から入社した新人の伊藤正敏が輝いた。優勝経験のある大昭和製紙、門司鉄道局を連破している丸善石油の強力打線をまったく寄せつけない。すると、3回表二死二、三塁から、増山監督は一回戦のヒーロー・水野を早くも代打に送る。水野は期待に応え、ライト線に弾き返して2点を先制する。続く4回表に北崎健二の二塁打で3点を奪うと、もう伊藤には十分な援護だった。伊藤は2安打で完封し、3対0で準決勝に進出する。

準々決勝

準決勝

準決勝の相手は、3試合連続完封で勝ち上がってきた東京都・ニッポンビールだ。それでも、調子を上げてきた日本石油の打線は、2回表に藁科の三塁打、林の左前安打で1点を先制する。ニッポンビールは3回からエースの北川芳男(元・巨人)を投入するが、北崎の右前安打をきっかけに、守備の乱れにも乗じて3点を追加。7回表にも菅沼正直のタイムリーで5点目を挙げる。

一方、先発の野村は2回に近藤と交代。近藤は要所を抑えて失点しなかったが、疲れが見え始めた6回裏に2ラン本塁打を食らい、さらに7回裏にもピンチを招くと伊藤に後を託す。伊藤は1点差まで迫られるも、必死の力投で5対4と逃げ切った。

決勝

大会連覇を狙う熊谷組を準決勝で倒した二瀬町・日鉄二瀬は、のちにプロで大活躍する江藤慎一(元・ロッテ)が20歳で四番に座り、エースの村上峻介は前年の一回戦で大会史上初の完全試合を達成している。だが、先発は21歳の井 洋雄(元・中日)。若い先発投手に対して、日本石油の打線は3回表一死二塁から北崎の三塁打で先制すると、続く菅沼がライトスタンドに叩き込んで3点を先行する。

先発を任された伊藤は、準々決勝と同じようにストレートとカーブを巧みに配し、相手打線に反撃のムードさえ作らせない。7回表に林が放ったソロ本塁打がダメ押しとなり、日本石油は4対0のシャットアウトで2年ぶり2回目の優勝に辿り着いた。

決勝

大会を終えて

0を1にした(初優勝)のが勢いなら、さらに難しいと言われる1を2にした要素は何か。増山監督は、のちにこう振り返っている。
「松下電器との一回戦で8回裏に1点を取られた時、9回表の攻撃に入る前に喝を入れるべきか考えていたが、守備からベンチに戻って来る選手たちが『勝負は下駄を履くまでわからんぞ』と言い合っているのを見て、何も言わなかった。2年前の優勝、この年の予選で日本鋼管に勝った自信が、着実にチーム力を高めていると感じた。そうしたムードが、代打に水野を送るなど私の采配も引き出してくれたと思うし、監督冥利に尽きる優勝だった」

そう、黒獅子旗奪還につながった“奇跡”は、勝つことでしか得られない自信や、最後まで諦めずに戦い抜く姿勢によるもの。それこそが、現在まで受け継がれているチームの伝統なのだ。橋戸賞には伊藤が選ばれ、増山監督には小野賞が贈られた。また、翌1959年は第30回記念大会で、前年優勝の日本石油は推薦出場する。そして、二回戦では丸善石油と対戦。6対1で日本石油に勝った丸善石油は、そのまま勝ち上がって初優勝した。

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