第5回優勝「V5 1967年(昭和42年)第38回都市対抗野球大会」

都市対抗連覇を置き土産に井上 茂監督が勇退し、1963年は前年の主将だった小林 勲が26歳の若さで監督に就く。エースの佐々木吉郎が抜けた投手陣は継投が主となったが、打線のパワーは変わらなかった。この年から、都市対抗では前年優勝チームの推薦出場が復活し、日本鋼管とともに第34回都市対抗野球大会に出場する。3連覇を目指した日本石油は、一回戦で神戸市・新三菱重工神戸(現・三菱重工神戸・高砂)を7対2、二回戦では横浜市・日本鋼管を2対0、準々決勝では大阪市・日本生命を4対3で下したが、準決勝では室蘭市・富士鉄室蘭に1対5で敗れ、1950〜52年の全鐘紡に次ぐ大偉業はならなかった。それでも、3位決定戦では浜松市・河合楽器に4対1で勝ち、黄獅子旗を手にしている。

その後、1964年は横浜市予選を勝ち抜くことができず、1965年は本大会に出場するも二回戦敗退と苦しい戦いを強いられたが、この年の選抜高校野球大会で優勝した岡山東商高のエース・平松政次を採用する。平松は、プロ野球で新たに実施されたドラフト会議において中日から4位指名を受けたが、日本石油は熱心に説得して平松を獲得。翌1966年に入社した平松は、新たに就任した北崎健二監督の下で瞬く間にエースとなり、第37回都市対抗野球大会に出場する。

一回戦で平松の故郷・岡山市のクラレ岡山を1対0、二回戦は大阪市・日本生命を9対0、準々決勝では常磐市・オール常磐を10対0と、またも無失点の快進撃を見せる。だが、平松を温存した東京都・熊谷組との準決勝は、1対1の7回途中から平松を投入したものの、9回裏に3ラン本塁打を浴びて惜敗。吉原市・大昭和製紙との3位決定戦は6対4で制したが、またも 黄獅子旗と悔しい結果に終わった。

2回に分けて行なわれたこの年のドラフト会議で、平松は大洋(現・横浜DeNA)から2位で指名される。だが、都市対抗で負けた悔しさから、「入団するなら来年の都市対抗で優勝してから」と、プロ入りを保留した。当時、社会人は指名された翌年のドラフト会議前々日まで入団することができたからだ。

1回戦、16奪三振の完封勝利をした
平松投手と堅い握手をかわす広瀬捕手
横浜市予選では大差で日本鋼管に2連勝し、満を持して迎えた第38回都市対抗野球大会。古豪の北九州市代表・八幡製鉄との一回戦は、平松が伸びのあるストレートを軸に安定した投球を見せると、打線も効果的に援護する。1回表、二番の渡辺三郎がレフトスタンドへ先制ソロ本塁打を突き刺し、3回表は一死一、二塁から三番の広瀬幸司が右越え二塁打を放って2点目。さらに、4回表には二死からの3連打で3点目を挙げる。平松は3安打16奪三振でゆうゆうと完封。2時間10分とスピーディな展開で、3対0の白星を手にした。

2回戦、先制点をたたき出した枝松の一撃河合楽器との二回戦でも、1回表に見事な速攻を披露する。一死から渡辺が四球で歩き、広瀬、主将・枝松道輝の連打で1点を先制。石山建一が四球で歩いた満塁から、飯田 修(日本鋼管から補強)が中前に弾き返して2点を追加する。結果的には、この3点だけだったが、3安打12奪三振でシャットアウトした平松には十分な援護だっただろう。

日本石油の勢いは、準々決勝で激突した実力派の富士鉄室蘭も一気に吹き飛ばす。2回表に長短5安打を集めて4点を先制すると、4回裏には平松が“ミスター社会人”の高梨英夫(大昭和製紙北海道から補強)にソロアーチを被弾。連続無失点は21回で途切れたが、その後も3点を追加し、7対1で快勝する。7回からは三浦健二、保田 勲にも登板機会を与え、平松を万全な状態に保った。

東京都・電電東京(現・NTT東日本)との準決勝も、平松は6安打1失点の好投。打線は4安打と苦しんだが、手堅い攻めで少ないチャンスをものにし、2対1で際どく勝利を手中に収める。そして、決勝には浜松市・日本楽器(現・ヤマハ)が勝ち上がってきたが、その道のりは険しいものだった。大阪市・電電近畿(現・NTT西日本)との一回戦は延長14回引き分けとなり、再試合も延長10回の熱闘。しかも、再試合は豪雨で3時間50分の中断を挟んだ。二回戦と準々決勝は9回で決着したが、日立市・日立製作所との準決勝も延長13回引き分けで、翌日の再試合は6回を終えたところで雨天ノーゲームに。再々試合も延長10回と、4試合で実に71回(通常は36回)を戦ってきた。

橋戸賞を受ける平松投手

そんな満身創痍の日本楽器を相手にしても、選手たちは最高の集中力を発揮する。1回裏に敵失を生かして先制すると、2回裏には平松がソロ本塁打。3回裏に枝松が2ラン本塁打を放ったところで、勝負はあったか。6回裏にも2点を加え、平松は5安打で完封。6対0の完勝で5年ぶり、大会史上最多となる5回目の優勝を成し遂げ、橋戸賞には平松が選出された。

ちなみに、のちに野球部長を務める吉田 清団長に率いられた応援団は、アメリカ人のチアガールが登場するなど斬新な応援スタイルも評価され、応援団コンクールで初めて最優秀賞を獲得。5回目の黒獅子旗に花を添えた。

また、平松は前年の宣言通り、優勝した2日後に大洋(現・横浜DeNA)と契約。都市対抗決勝は8月8日だったが、8月16日の広島戦には先発で初登板し、20日のサンケイ(現・東京ヤクルト)戦では完封で初勝利を挙げている。カミソリシュートを武器に、プロ18年間で通算201勝をマークしており、甲子園の優勝投手がプロでも200勝したのは野口二郎(元・阪急)と平松の二人だけ。しかも、平松は都市対抗でも頂点に立った。これだけ勝利の女神に愛されていただけに、平松がプロで優勝を経験できなかったのは意外である。

大会史上最多となる5回目の優勝を喜ぶ野球部

さて、日本石油野球部も勝利の女神に愛されていると言っていいが、たった一度だけフラれたことがある。連覇を狙って出場した1968年の第39回都市対抗野球大会だ。推薦出場で補強がいなかったが、岡山市・クラレ岡山を9対0、富士鉄室蘭を2対0、富士市・大昭和製紙を5対3で下して準決勝に進出する。河合楽器との対戦で、1対3とリードされて迎えた8回裏、一死一塁から秋元国武が放った打球はレフトスタンド中段で弾んだ。起死回生の同点2ラン本塁打である。ところが、秋元が二塁ベースを踏んでいないという河合楽器のアピールが認められ、得点は1点に。日本石油は放棄試合も辞さぬ勢いで猛抗議し、試合は56分も中断したが、判定は覆らずに2対3で敗れる。

そして、この悔し過ぎる敗戦を機に、長く黒獅子旗からも遠ざかってしまうのだ。

【大会戦績】

1回戦3-0vs 八幡製鉄・北九州市
2回戦3-0vs 河合楽器・浜松市
準々決勝7-1vs 富士鉄室蘭・室蘭市
準決勝2-1vs 電電東京(現・NTT東日本)・東京都
決勝6-0vs 日本楽器(現・ヤマハ)・浜松市

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