第28回 鈴木 健一
〜社会人野球を陰で支える男・ベースボール・ライフ〜

鈴木 健一

野球と出合った少年は、そのほとんどが大人になってもプレーを続けたいと思う。そして、高校から本格的なレベルを経験した時、自分の中に仲間より優れた才能があると感じた者は、プレーを続けていくことにある種の使命感さえ抱くようになる。だが、実はここからが本当の競争なのだ。自信を持った者たちが集まる大学、社会人、そしてプロの厳しいサバイバルレースの中で、かつての天才少年は次々と淘汰され、悔しさにまみれながらユニフォームを脱ぐ決意を固める。

そうしたレースに生き残ったイチロー(マリナーズ)や松坂大輔(レッドソックス)は、自らのプレーで人々に夢を与え、自身でもいくつもの夢を描くことができる。まさに幸せな野球人生だ。では、そこまで勝ち残れなかった者の野球人生は、幸せだったとは言えないのだろうか……。

幸せな野球人生とは何だろう。

『わが青春に悔いなし』の第28回は、日本野球連盟事務局に出向し、社会人野球界をサポートしている鈴木健一。彼の青春譜を振り返りながら、幸せな野球人生について考えてみたい。

鈴木 健一

「私は神奈川県横浜市金沢区の出身です。古くは京浜急行の駅名にもなっている金沢文庫、最近では八景島シーパラダイスが知られていますね。地元の釜利谷小はソフトボールとサッカーが盛んで、私も両方プレーしながら育ちました。中学では、迷った末に軟式野球部に入りました。金沢中は1学年が15クラスもあるマンモス校で、私が3年生になる時に釜利谷中ができて、そちらに移ることになりました。この時、1年足らずですが旭シニアで硬式野球を経験し、高校も実家から近い横浜高校に進学しました」

当時も、神奈川県の高校野球は全国屈指のレベルを誇り、全国制覇の経験がある強豪校だからといって、甲子園に出られる保証はどこにもなかった。実際、横浜高も1980年夏の甲子園を制して以来、春夏1回ずつしか甲子園に駒を進めることができずにいた。鈴木が入学した1987年秋には、練習グラウンドが新設されるなど、強豪も再び栄光を手にしようと必死にもがいていた頃だ。それでも、鈴木が1年生の夏は"Y校"こと横浜商業、2年生の春は桐蔭学園、夏は法政二高、そして3年生の春も横浜商業と横浜商大高が甲子園へ出場。鈴木が甲子園に出られるチャンスは残り1回になってしまった。

「私自身も足を武器にレギュラーになり、『ドラフト指名もあるかな』なんて考えることもありましたが、2年生の秋に左足のアキレス腱を痛めてしまった。ただ、一方でバッティングにパンチ力もついてきて、大きいのも打てるトップバッターとして最後の県予選にかけていました。春の県大会は、選抜でベスト 4入りしていた横浜商に準決勝で勝ち、決勝では桐蔭学園にサヨナラ負けしましたが、関東大会に進んだ。すると、準決勝で帝京高を破って優勝したんです。私がエースの吉岡(雄二=現・東北楽天)からホームランを打ちました。結果的に、帝京が夏の甲子園で優勝しましたから、私たちのチームもなかなかの実力はあったと思います。この優勝も自信にして夏の予選に臨み、何とか優勝することができた。日大藤沢高との決勝は、初回にいきなり4点を取られましたが、辛抱強く追いかけ、延長11回サヨナラ勝ちです。キャプテンを任されていましたし、3年間の苦労が報われた感じがして本当に嬉しかったですね」

憧れの舞台では、初戦(二回戦)で石川県の星稜高に敗れた。しかし、甲子園を含めた3年間の経験を自信にして、エースの恵津 豊、捕手の門奈雄虎とともに亜細亜大へ進学した。

鈴木 健一

「私自身は法政に進学したいと考えていたんですが、『おまえは法政のタイプじゃない』と言われまして(笑)。亜細亜には多くの先輩も進学されていましたし、何より練習で揉まれるというチームカラーが横浜高校と同じでしたから。振り返れば、野球界では望んでも叶わないような、良い道を歩かせていただいたと思います」

本人が語るように、亜細亜大は厳しい練習で知られているが、横浜高で鍛えられた鈴木はコツコツと努力を重ねて成長した。入学時には、4年生の小池秀郎 (元・近鉄ほか)がエースのチームで春秋のリーグ戦を連覇。その後の3年間はリーグ優勝することはできなかったものの、4年時にはキャプテンも務めるなど、大学野球でもしっかりとレベルアップした鈴木には、社会人野球という次のステージが用意された。しかも、またしても名門の日本石油だったのである。

「4年生の春のリーグ戦の途中、ゴールデン・ウィークくらいには話をもらい、私と同じく内定した他大学の選手とは『社会人では一緒に頑張ろう』と話していました。入社する前年(1993年)に都市対抗で7度目の優勝を果たし、勝って当たり前というムードのチームでしたね。私の同期は、マネージャーとトレーニングコーチも含めて11人。日本一のチームが大量採用したわけですから、次の時代を作ってほしいという期待は受けていたと思います」

ところが、いくら期待された戦力とはいえ、レギュラーは日本代表を経験しているような実力者ばかり。入社直後からレギュラーをつかんだのはショートの野島正弘だけだった。それでも、着実に実力を高めた選手は、少しずつチャンスをものにしていく。1995年に都市対抗V8を達成した時には、菊池 徹もレフトでスタメン出場。翌1996年には、捕手の原 浩高も指名打者で出場機会を与えられ、木村孔士はリリーフエースに成長した。鈴木も常にベンチ入りメンバーに選ばれてはいたが、シビれるようなバッターボックスに立つチャンスはなかなか巡ってこなかった。それでも、一塁ベースコーチなどを黙々とこなし、名門の一員としてチームに貢献していた。

鈴木 健一

「当時を振り返ると、レベルの高いチームの中で試合に出ることができませんでしたから、『他の企業チームに入れば、もしかしたらレギュラーになれたかもしれない』と考えたこともあります。ですが、試合には出られないながらも、常にベンチ入りメンバーには選ばれていましたし、一塁ベースコーチという役割で試合に集中することもできた。日石野球部には、徹底した実力主義という厳しさがある反面、私のように技術ではない部分でもチームの力になろうとする存在も認めてくれた。そういう意味では充実していたのですが、3年目のシーズンが終わり頃になると、『もう今年限りかな』と感じるようになりましたね。すでに2年で野球部を卒業した同期もいましたし、何より私も結果を残していませんでしたから。でも、そんな私にもコーチは熱心に指導してくださり、おかげでバッティングがよくなってきたところだったんです。だから、『もう一年ユニフォームを着られるかな、着たいな』という気持ちも強かったのを覚えています」

残念ながら、鈴木の希望は叶わなかった。シーズンオフになり、副部長に呼ばれた鈴木は、マネージャーへの転身を通告される。
「選手兼任ではダメですか?」
「キミの打力が伸びてきているのは評価している。けれど、うちのマネージャーの仕事は、選手をやりながらできるようなものじゃないんだ」

どうしてもユニフォームを着たかった。自分が納得できる限界まで挑戦し続けたかった。しかし、自分がチームから必要とされているのは嬉しかった。そして、何より野球が好きだった。「1週間くらい考えなさい」という副部長の言葉を聞いた時は涙が出たが、それで気持ちはスッキリした。マネージャーとして、チームを支えていこうと決意した。

鈴木はサブマネージャーを2年間、チーフマネージャーを3年間務めた。チームの勝利を第一に考え、そのために何ができるかと模索していたこの間には、三菱石油と合併して日石三菱になるという大きなターニング・ポイントもあったが、野球部は都市対抗ベスト8が最高戦績と、それまでの実績から考えれば苦しい時期を過ごした。全国の舞台であれほど恐れられたチームが、ハイレベルとはいえ神奈川でも勝てないという残酷な現実を受け止め、それでも鈴木は名門の誇りを胸にチームの復活を願った。それを成し遂げられず、チームを卒業して社業に就く時は、自分の無力さに肩を落とした。しかし、いつか後輩たちがチームを復活させてくれると信じていた。

鈴木 健一

「野球部を卒業して広島勤務になりましたが、野球とはきっぱり縁を切り、新しい道で頑張っていこうと思いました。だから、野球部の結果こそ気にしていましたが、スポーツ新聞は読まなくなったし、草野球などもやらなかった。体を動かさないとストレスが溜まってしまうので、ゴルフに熱中していましたね。振り返ると、11人で入社した私たちの代がもっと、もっと活躍できていれば、野球部もあそこまで苦しい戦いを強いられることはなかったんじゃないか。そう考えて責任を感じたこともあります。」

ところが、仕事にも慣れてきた2006年の暮れ、人事異動の時期になって鈴木は所属長に呼び出される。
「出向してもらうことになった。キミにしかできない仕事だから頼むよ」
「私にしかできない仕事って……」
「野球だよ。日本野球連盟の事務局だ」

「ビックリしましたけどね(笑)。うちの会社も伝統ある野球部の存在価値を見直し、チームを強化する一方で、日本代表のオフィシャルスポンサーになるなど、野球との結び付きを再び深めていましたからね。でも、連盟のスタッフになって、社会人野球全体をサポートすることになるとは……。本当にわからないものですね」

日本野球連盟事務局に籍を置いて1年が過ぎた。都市対抗や日本選手権に主催者として立ち合い、社会人野球のさらなる発展を考える毎日だ。もちろん、鈴木がマネージャー経験者であることは誰でも知っているから、企業チームのマネージャーたちから社会人野球の将来のための提案や意見を聞かされる機会も少なくない。そうした声に耳を傾け、ひとつの大会、ひとつの試合でもファンに喜んでもらえるようにと、鈴木は精力的に動いている。

鈴木 健一

「社会人野球というのは、それこそ私たちが生まれる前の遥か昔から、日本を代表する企業が支えるという独特のシステムによって、着実な発展を続けています。選手のレベルも高く、世界に誇れるスポーツ文化だと思うのですが、最近では娯楽が多様化した中で、どうしても高い注目度を維持できていないという感じでしょう。ただ、そこには連盟からインフォメーションが不足しているという反省もあります。もちろん、努力をしていないわけではありませんが、これからはチームの声、全国の地区連盟事務局を運営する現場の方々の声、そしてファンの声をできる限り聞き、時代にマッチした社会人野球の姿を追求していかなければならないと思います。私はいつか、また会社に戻ることになります。一度は区切りをつけた野球ですが、現在の仕事をしている間は、野球のことだけを必死に考えていきたい。そして、ひとつでも、ふたつでも、社会人野球の発展につながる仕事ができればいいですね」

幸せな野球人生とは何だろう。

激しいサバイバルレースに生き残ったイチロー(マリナーズ)や松坂大輔(レッドソックス)は、自らのプレーで人々に夢を与え、自身でもいくつもの夢を描くことができる。まさに幸せな野球人生だ。しかし、彼らがダイナミックなパフォーマンスでファンを沸かせている裏では、多くの人間が彼らの野球人生をサポートしている。同じように社会人野球の世界でも、華やかな都市対抗の舞台裏では多くの人間が、ただファンの笑顔を作るために汗を流している。そうやって社会人野球を支えている者たちを、サバイバルレースに勝ち残れなかった敗北者と呼ぶだろうか。いや、子供たちに夢を与えている彼らの野球人生もまた、個性的な光を放っていると言えるだろう。

ENEOS野球部の60年になろうとする歴史と伝統の中には、そうした素晴らしきベースボール・ライフを過ごした者がたくさんいる。歴史が人を作り、人が伝統を作っていく。そのひとりである鈴木健一のベースボール・ライフも、社会人野球との距離を縮めることでクローズアップされている。ENEOS野球部OB の誇りを胸に、鈴木が活躍してくれることを願いたい。

「わが青春に悔いなし」は今回(全28回)をもって終了いたします。長い間、ご愛読ありがとうございました。
次回からは、好評連載中の突撃インタビューにて「ENEOS野球部」現役選手のベースボールライフをご紹介していきます!!
突撃インタビューでのベースボールライフご紹介は、5月23日(金)公開予定!! お楽しみに

※ このコーナーの写真は本人から提供されたものを使用しております。

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